ロータリーの誕生
孤独から友を求めて・・・孤立より社会との交りを、青年ポール・ハリス(Paul Hariss) 氏が米国シカゴ市で弁護士を開業した当時は 不安定な世相を反映してか、彼の仕事は幸い多忙を極め、そこに永住と職を得たものの移住者として何かしら身辺の寂莫を拭い去ることが出来なかった。
友が欲しい、何でも語り合え、何んでも聞かしてもらえる親しい友を得たい。・・・是が当時の彼の念願であった。そうして共に喜び共に楽しみが頒ち合えたら もっと豊かな生活が送れるだろう。
同じ時代に同じ処に住む人々が互いに援け合い励まし合えたらもっと明るい町が社会がそして国が出来るだろうと、彼は彼の心の一隅に持ち続けた。
愛の芽生を友人の炭鉱商Silvester Schiele、鉱山技師Gustavrus Loehr、それから仕立屋のHiram Shory等に打ち明けた処、まったく同意見だったので 遂に1905年2月23日(明治38年)の夕、此の四人が鉱山技師の事務所に会して大いに胸襟を開いて将来を語り合った。時に彼は37才シカゴに移って9年目であった。 実に此の寄り合いこそ60年後の今日、世界126ヶ国11,888クラブで562,000余の人々が毎週定期的に集合する友誼団体としての世界最初のシカゴR.C.の前身であり、 その第一回の例会であった。
誕生したばかりの四人の集まりは二回目の会合には印刷屋Hary Rugglesが加わり、其の後各人の事務所宅を順番に廻って会談、会食を共にしつつ続けられたが 逐月一業一員制を以って友人が増してくるに従い、以前のように各人の宅をrotateすることが出来なくなったので一定の場所を定めて集まるほどに発展した。 即ち其の後毎週一定日時に全員が欠かさず集まることを申合せ順次、社会性を持つ会合として規律だてられて今日の世界的友誼団体の基礎が大きく深く大地に根を下したのである。
ポール・ハリス氏は此の会合が当初各人宅や事務所を輪番で行われたことからRotary Club(ロータリークラブ)と命名した。
次に最初の四人が夫々異なった社会的職業に従事してきた事、一業一員制を採った事が後年各職業代表によってクラブが組織規定化される基本的原則となり、今日のRotary活動の 礎石となったものである。
尚、ポール・ハリス氏が初めて会合した日を記念し、毎年2月23日をロータリーの創立記念日として居るのである。
国際ロータリーの結成
※大牟田ロータリークラブ創立10周年記念誌より抜粋ポール・ハリス氏の熱意によって生まれた職を異にする人々の集りは、お互に広く接するに従い、自分の住む町の事情に通じ見職交換の機会ともなり友人の増加するに従い興味、 実益を加え、ロータリークラブとしての社会性を増すに伴い、彼は此の毎週の会合がお互いの為のみならず、世の為、人の為になるサービスを目的の一つに加えた。
この政治性を帯びないロータリークラブは広く社会人の望む処となり、三年後の1908年(明治41年)には米国西海岸のサンフランシスコに第二のロータリークラブが生まれ、 翌々1910年(明治43年)には米国内に16クラブを算するに至り、各クラブの合同大会も開かれ、茲にNational Association of Rotary Clubs(ロータリー全米連合会)が 結成せらるるに至った。
同年遂に国境を越えてカナダに新しいクラブが成立、翌年1912年(明治45年)には英国にも誕生するに及び茲に The International Association of Rotary Clubs(ロータリー 国際連合会)が組織され、名実共に国際的団体となった。
後年1922年(大正11年)大会決議を以って正式名をRotary International(国際ロータリー)と改名して現在に及んでいる。世界各位にぞくぞく新クラブが結成されるに従い 順次組織構成も研究整備せられると共にクラブの指名も逐次明確化され、その発展は社会的存在価値を一層高めるに至った。
国際ロータリーの現状
第2次世界大戦が終わった1945年の世界のロータリーのクラブ数5,441、会員数は247,212名が16年後の1962年度は、クラブ数11,021、会員数1,013,033名で25年間で2倍と なりました。1989年にベルリンの壁が崩壊し、翌90年からロシアをはじめ、中央・東欧ヨーロッパの国々の加入や新興国の会員の増加などで2003年にはクラブ数30,256、 会員数1,243,431名となり、2020年6月末現在クラブ数は、36,246で増加、会員数は1,213,465名で121万人台で推移しています。
日本は、1996年がピークで会員数は、13万人を数えましたが、2014年4月末では、88,803人で大幅に減少しています。最大数の会員を有するアメリカも減少しています。
当第2700地区は、ピーク時の3,945人から3,160人まで減少していますが、減少率は日本の地区では最小です。
日本の減少は、経済発展の停滞や、近年RIが対外的奉仕活動に重点を移し、会員拡大のために一業種一会員制の廃止や例会出席の軽視などの動きは、ロータリーが伝統を 重んじる日本のロータリアンにとって、ロータリーの魅力が失われるものとなり、会員数減少の一因であると言われています。
魅力ある活性化されたロータリーが期待されます。
日本のロータリー
※大牟田ロータリークラブ創立 10 周年記念誌より抜粋
年々国際的機構を整え世界各地にその運営を拡大しつつあったRIは第一次世界大戦終了後、日本にもクラブ結成を期待すると共に他方、我が国に於ても大戦後国際的地位の 前進するの機運に際会し、年々国際的機構を整え世界各地にその運営を拡大しつつあったRIは第一次世界大戦終了後、日本にもクラブ結成を期待すると共に他方、我が国に 於ても大戦後国際的地位の前進する機運に際会し、茲にロータリー運営の理解者の一人、故米山梅吉氏(当時三井銀行役員)はRI上部直接の委嘱により在京の有志と語り合い、 東京に1920年10月(大正9年)仮クラブを結成、翌1921年4月1日付を以って会員24名よりなる日本の東京R.C.はRIの加盟承認を受け、茲に始めてその一員となったのである。
実にシカゴR.C.誕生以来数えて16年目、アジア最初のマニラR.C.結成の翌々年に当る。越えて、1922年(大正11年)大阪に、1924年(大正13年)に神戸・名古屋に、1925年 (大正14年)京都に、それから翌1927年(昭和2年)横浜の六大都市に結成せられ、同年には京城に、さらに満州、大連、奉天、哈爾賓等当時日本の領土であった外地まで拡大し、 1940年(昭和15年)初めにはクラブ数43、会員数2142名を容する有様となった。尚、1928年(昭和14年)第70区本州東部、北海道、第71区本州西部、四国、九州、台湾、第72区、 朝鮮、満州の三地区分割を認められ益々発展拡大していったのである。
然るに日支事変より太平洋戦争に突入すると言う気運が濃厚となって、官憲の国際的団体に対する弾圧は日増しに激しくなり、遂に1940年9月(昭和15年)RI脱退が決議せられ 解散するに及び、日本ロータリー生れて20年後、遂に世界各地との交りは中絶の運命に陥った。
然りRIは脱退したとは言え、各地共本来の主旨に添い例会日の曜日により東京は水曜会、大阪は金曜会、と言うように各地独立の会合を残し、ロータリーの理想と精神を継承し その伝統を護りつつ終戦を迎えたのである。
終戦後、漸く治安の定まるに従いRI復帰の要望が逐次昂まり1949年1月(昭和24年)国際ロータリー理事会は日本及び独逸のRI復帰を決議し茲に正式加入を許されたのである。 欺くしてRI本部より特に当時のRI幹事R.Means氏を派遣せられて熱心なる援助により、同年4月東京クラブを始めとし、京都、大阪、神戸、名古屋、福岡、札幌と相次いで復帰し、 新たに第60区の指定を受け再びRIの一員に加えられるに至った。
その後、戦前にも増して次々に復帰し、或は新設により1955年7月(昭和30年)には、地区も第60区、第62区、第63区、第64区の四区制をとり、クラブ数204、会員数8,456名を数え、 次に1957年7月(昭和32年)に入り五区制に変更し、1960年(昭和35年)には六区制、更に翌年1961年(昭和36年)には、第350区、第352区、第355区、第358区、第360区、第365区、 第368区、第370区の八区制となり、1964年7月(昭和39年)ではクラブ数617、会員数28,320名を数える増加ぶりを示し、将来とも続々として各地にロータリークラブの誕生の胎動を 見るに至り、より一層の発展が期待されている現状である。
1961年5月28日から6月1日4にかけて東京において第52回国際ロータリー年次大会がアジアで初めて開催され、天皇、皇后両陛下の御光臨を仰いで盛大に行われたことは、日本の ロータリーが世界的に認められたとして、日本のみならずアジアのロータリアンとして永く記憶すべき歴史的行事であった。
(以上大牟田ロータリークラブ創立10周年記念誌より抜粋)その後1968年(昭和43年)には、ジョージ・東ケ崎潔氏(東京R.C.、国籍アメリカ)が日本人初のRI会長に就任。1978年(昭和53年)東京で2回目の国際大会開催(参加95ヶ国、 39,834名)。RI会長ジャック・デービス氏(バミューダ)のもとRIテーマは「全人類を結びつけるために奉仕せよ」でありました。1982年(昭和57年)には、中津R.C.の向笠広次氏が 日本人で2人目のRI会長に就任。「人類は一つ、世界の中に友情の輪をかけよう」をRIテーマに掲げました。
1989年(平成元年)の規定審議会では、①女性会員の入会承認②公式標語採用が決議され、第1標語は「超我の奉仕」Service above self。第2標語をアーサー・F・シェンドルの 「最もよく奉仕する者は、最も多く報われる」He Profits who serves bestとしました。2002年(平成14年)に地区リーダーシッププラン(DLP)が採用され、「分区代理」の名称を 「ガバナー補佐」と変更され、ガバナー補佐は、グループ内でのガバナーの職務の一部を代行できることとしました。2004年(平成16年)には、日本で3回目の国際大会を大阪(大阪 ドーム)で開催。RI会長ジョナサン・B・マジィアベ、RIテーマ「手を貸そう」、166ヶ国、45,381名の参加は、過去最高を記録しました。翌年の2005年(平成17年)には、ロータリー 創立100周年記念国際大会がシカゴで開催。166ヶ国、39,460名の参加でありました。2010年(平成22年)の規定審議会では、Eクラブの正式採用、地区2クラブまで可とし、新世代 奉仕が第5の奉仕部門となりました。2012年(平成24年)、田中作次氏(八潮R.C.)が、30年振りの日本人3人目のRI会長に就任。テーマを「奉仕を通じて平和を」としました。 2013年(平成25年)の規定審議会では新世代奉仕を青少年奉仕へ名称変更。地区協議会を「地区研修・協議会」へ名称の変更。Eクラブの地区2クラブまでの制限を無くしました。 地区で「副ガバナー」の選出(資格はパストガバナー)。配偶者の入会を認め、衛星クラブを承認。また試験的プログラムとして「法人会員」指定会員4人まで可が試行中です。 日本のロータリーの中では、大きな変化をみせる国際ロータリーに対して、変えてはならないもの、大切に守っていくべきものがあるのではないかという意見もあります。